経歴


少年時代

美しい水や緑に事欠かない環境で育ち、来る日も来る日も自然の中を駆け回り、中でも天下の清流長良川からは本当に多くの事を学びました。

新しい遊びを思いついたときの興奮、溺死したわが子の傍らで泣き崩れる母親への憐れみ。

その都度少年の心は大きく揺さぶられ、大人への階段を登っていったのです。

職人だった親父は長男の私にはとても厳しく、小学校の高学年にもなるとビンタでは効果が望めないため、バトミントンのラケットなどで気合を注入されました。

誤解を招くかもしれませんが、決して虐待ではありません。

度を越す寸前の愛のムチです。(笑)

それが理解できるようになったのはずいぶん経ってからですが、おかげで昨今では死語になりつつある反骨精神やハングリー精神なるものが醸成されました。


高校

地元の岐阜県立関高等学校に進学。

ラグビー部に入部しましたが、途中加入のためレギュラーになれるとは思っておらず一向に身が入りませんでした。

ところが、幸運が重なってスタメンとなってからは、心を入れ替え練習に取り組み、3年生の国体予選では県の準決勝まで進出。

敗れはしたものの、花園常連校である関商工から2トライ(公式戦初!)を奪う善戦でした。

また、バンド活動(ギター担当)にも熱を上げ、3年生の時には佐野元春のコピーで文化祭に出場。

すべての演奏を終えると、思いもよらなかったアンコール!

持ち時間を超過していましたが、かまわずイントロを弾きだすと、無慈悲にも電源を落とされ…、ですが、あの歓声はいまだに忘れられません。

親父が疎ましかったことや田舎者なら誰でも持っている都会への憧れから東京の大学を志望。

お前には無理だろうという先生達の冷ややかな視線にも屈せず、なんとか明治大学政経学部経済学科に合格できました。


大学

夢にまで見た東京でしたが、「すげー!」といった興奮が長く続くはずはありません。

慣れてくると学生の本分を忘れ、アルバイトに明け暮れる日々。

お酒も存分にいただき、頭ではなく肝臓だけはバッチリ鍛えられました。

創立1965年のアウトドアサークル「シュラフの会」に所属し、京都までヒッチハイクしたり、夜通し山手線を歩いて一周したり…

当時はその活動に疑問を感じたりしましたが、今になって振り返ればいい思い出です。

就職活動がはじまりましたが、折りしも時はバブル真っ盛りで超売り手市場。

Uターン希望だったので、地元では大手、さらには一番より二番がいいという理由で、大垣共立銀行の門を叩いたところ、最初の訪問であっさり内定。

就活スーツが少々億劫になっていたこともあり、必然的に他の選択肢は消滅しました。


銀行(営業店)

大垣共立銀行に入行後は営業一筋、ホンダのスーパーカブを駆り、雨の時も風の時も疾走する日々が続きます。

勝気な私にとって、成果が数字として表れる営業という仕事は向いていたのかもしれません。

梅林支店、城東支店、岐阜支店と経て、転機が訪れます。

やはりご縁があるのでしょうか、東京支店に異動です。

日立やNECなどの大手企業担当となり、最初はスケールの大きさに戸惑いましたが、最先端の金融を学べたことは大きな財産となりました。

学生と違って懐にも余裕がありましたから、久しぶりの東京ライフも大いにエンジョイしたことは言うまでもありません。(笑)


銀行(生命保険研修)

ところが、東京支店での勤務が3年半経った頃、思いもよらぬ辞令が。

旧安田生命本社での半年間の研修を命じられたのです。

今では当たり前となった銀行での保険販売ですが、平成12年当時はそろそろ解禁かという憶測が飛び交っていた時期。

それに備え、銀行から第一号として派遣されたわけです。

けれども、旧安田生命にしても銀行からの研修生受け入れは初めてのこと。

各部署を転々とするも急造の机があるだけで、講義らしいものもほとんどなく半年間の放置プレー。

楽しみを見出すため、他行から派遣された真面目な研修生を堕落させることに注力し、かなりの成果を残しました。(笑)


銀行(本部)

研修後は本部へ異動となり、保険販売の準備を進めましたが、自分の中の疑問が次第に大きくなっていきます。

その思いは、入行当初から感じていたものでした。

最終的に銀行員では顧客の利益に貢献できないと確信し、退職を決意しましたが、いざとなると恐いものです…

銀行員として10年、同期の中でも先頭集団を走り、築いてきたものをすべて失ってしまうわけですから…

ちょうどその頃、私が敬愛するアントニオ猪木氏が「迷わず行けよ!行けば分かるさ!」との名言を残し、現役に終止符を打ちました。

この言葉に後押しされなかったら、今の自分はなかったかもしれません。

とはいえ、予想はしていましたが、家族からは猛反対されました。

実家が事業を営み、家族で休日を過ごした経験が乏しい妻にとって、土日休みが保証されている生活は憧れだったようです。

しかし健全な嘘を交えた懸命な説得により何とか納得したとは思ってますが…(笑)


独立当初

かくして亀山保険事務所に身を転じたわけですが、少なからず勝算はありました。

銀行で培ったお金の知識を活かし、ファイナンシャルプランナーとしてお客さまに世の中の真実を伝えれば、必ずや理解が得られるだろうと。

事実、自動車保険が大半だった既存のお客さまに、生命保険をはじめとする様々な商品をご案内し、滑り出しは順調でした。

本業以外にも、住宅ローン、資産運用など、お金に関するご相談を多くいただき、銀行員では決して語れない本質をお伝えしました。

ところが、予期せぬ出来事が起こります。


闘病

左耳の下のシコリには前職の頃から気づいていましたが、痛みもなく、また病院に行く時間もなく数年が経過。

ところが、人からも指摘されるほど大きくなってきたため、仕方なく医療機関を受診。

良性の腫瘍と診断され、六時間に及んだ手術も無事に終了。

翌朝ベッドでまどろんでいると、先生から「がん」との宣告が…

平成15年12月のことです…

そのとき妻が流した涙を、一生忘れることはないでしょう。

その涙と当時4歳だった息子の笑顔が、病魔に立ち向かう覚悟と打ち勝つ力を私に与えたことは言うまでもありません。


現在

幸運だったのは、生命保険業界NO.1の講師、五十田三洞先生とのご縁をいただいたこと。

決して安くない対価を支払いましたが、先生からは本物の仕事を学びました。

この道を志した頃から、「生命保険で大損」という事態に多くの家庭が陥っている現状に対し、非常な憤りを感じています。

保険業界に身を置くものとして、大変悲しく思っています。

これからも先生の教えである「まっとうな王道」を正々堂々と歩み、「亀山でよかった!」と言っていただけるよう、楽しく励んでいきます!